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野沢那智



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Wikipedia

野沢 那智(のざわ なち、1938年1月13日 - 2010年10月30日)は、日本の男性声優、ナレーター、ラジオパーソナリティ、俳優、演出家、実業家。

東京府(現:東京都)出身。オフィスPAC元代表。身長167cm、体重52kg。血液型はAB型。父は作家の陸直次郎、妻は女優の成瀬麗子、長男は俳優の野沢聡、姪はタレントの野沢直子、大姪(直子の娘)は格闘家の真珠・野沢オークレアー。

本名は野沢 那智(のざわ やすとも)。

人物

数多の洋画吹き替え・アニメ作品で声の出演、またラジオDJ・ナレーターなどを手がける。舞台プロデュース、舞台演出でも活躍。

本名は、同表記で「のざわ やすとも」。公私ともに正しい名前を呼ばれたことがなく、誤った呼び方がそのまま芸名として定着した。

生涯

舞台美術家から舞台演出家への転向、役者の道へ

中学生の頃、家の近くにあった「明治座」という芝居劇場へ毎日のように通う。ただし見ていたのは役者ではなく舞台装置で、明治座から帰るとみかん箱を舞台に見立てたミニチュアを作って遊んでいた。最初から役者をやりたかったわけではなく、将来は舞台美術家になりたいと思っていた。

その後、國學院大學政経学部に進む。大学3年生の頃からプロ劇団に出入りするようになり、大道具などの仕事を手伝わせてもらうようになる。ところが、その劇団の舞台美術家から「お前絵が下手だな。思いつきはいいんだけど。向いてないよ。やめろ」と言われてしまう。野沢はそれでも芝居関係の仕事がやりたかったため、今度は舞台演出家を目指すようになる。

大学を中退し、劇団七曜会に演出家研修生として入団。だが、主催の高城淳一に会った途端、「演出家希望?とりあえず役者やれ!」と言われ、いきなり舞台に出ることになる。それから3年ほど、七曜会で役者を続けることになった。なお、七曜会時代の先輩には肝付兼太、青野武らがいる。

また、当時誕生したばかりだった洋画の吹き替えのアルバイトをこなすようになった。俳優間では「俳優として、自分のオリジナリティを捨てている」と見下されていたが、野沢は「当時はテレビドラマも生放送だから、ドラマの仕事が来ると稽古やリハーサルで一週間は拘束される。でも、それじゃ舞台のための稽古ができない。吹き替えは一定期間で終わるから、時間的に効率のいいアルバイトだった。役者を目指しているからには、稽古時間が欲しいじゃないですか。それに、一応セリフを喋る仕事だから、まったく関係ない業種のアルバイトより、吹き替えのほうが勉強になりますからね。僕は演技のデッサンとして面白いなと思ったし、実際に収入もなかった」という理由で積極的にやったという。

劇団七曜会を退団後、野沢は役者仲間を集めて「劇団城」を立ち上げた。初めて演出を担当するが、難しい演目ばかりやっていたため、客は入ってこなかった。そのため、金はかかるとたちまち運営に行き詰ってしまい、劇団は分裂。製作の責任者であった野沢は3年間で370万円(現在の価値で2000万円ほど)もの借金を抱え込んでしまった。

アパートを引き払い、友達の家を転々としているような生活で、15円のコッペパンで「今日は食べたぞ!」と満足していたほどの赤貧生活だった。当時の生活について野沢は「少しも辛くなかったのは、芝居が好きっていうのもあるけど、日本中が貧乏だったからでしょうね」と振り返っている。

アテレコ(声優業)の本格開始

借金返済の見通しも立たず困り果てたある日、野沢が銀座の街を歩いていると、劇団七曜会にいた頃の先輩である八奈見乗児と道端で偶然出くわした。そこで野沢は「何か仕事がないですか」と聞いたら、「お前、アテレコやれ。事務所は紹介するから」と八奈見に言われるが、野沢は最初、冗談だと思ってまともに取り合わなかった。しかし一週間後また偶然八奈見と出くわすと「もう事務所に連絡入れたぞ」と言われ、四谷にあるプロダクションに連れていかれるが、そこは裏通りにある魚屋の2階で、階段も狭く「俳優の事務所っつったって汚ねぇんだな。何ていうプロダクションなんだろう」と見てみると「東京俳優生活協同組合」だったという。このような経緯から事務所の熱心な売り込みもあって、野沢は声の仕事を始めた。


 

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