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田中康夫

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Wikipedia

田中 康夫(たなか やすお、1956年〈昭和31年〉4月12日 ? )は、日本の政治家、小説家。

元長野県知事(公選第15・16代)、衆議院議員(1期)、参議院議員(1期)、新党日本代表などを歴任。

来歴

生い立ち

1956年4月12日、東京都武蔵野市に生まれる。本籍地は静岡県庵原郡富士川町(現・富士市)。父が信州大学教授に就任したため、1964年4月に家族全員で長野県上田市に住居を移した。さらに1966年には松本市に引っ越し、信州大学教育学部附属松本小学校に転入し卒業。1969年4月、信州大学教育学部附属松本中学校に入学。在学中はサッカー部部長を務めた。

大学時代

1975年3月、長野県松本深志高等学校を卒業。高校3年次在学中、東京大学文科二類を受験。英語、国語、数学が得意科目であった一方、歴史の知識問題などは、そのような分野で点数をとるのは邪道と勉強を放棄した。東大受験前に受けた模擬試験「東大オープン」では、英語、国語、数学、地理、歴史等の全科目の総合得点で全国80位程度、英語だけなら全国3位という好成績であったと、インタビューに答えている。しかし、入試本番では一次試験で不合格となった。

そのため同年3月に上京し、東京の駿台予備学校で浪人生活を送る。この際、駿台文庫の『基本英文700選』を愛用し、後に著書『田中康夫の大学受験講座』(1988年、マガジンハウス)においても同書を激賞している。この予備校時代は、服などブランドものを買いあさる生活を送った。この日々が後に、大学在学中に執筆し、作家デビュー作となった『なんとなく、クリスタル』(文藝賞受賞)のモチーフとなっている。

1976年4月、一橋大学法学部入学。しばしば田中は著書内で法学部出身であることを表す際に「方角を間違えて阿呆学部に入った僕は…」との表現を用いる。法学部後期には国際政治学の細谷千博教授のゼミナールに所属。政治学者の井上寿一・元学習院大学学長はゼミの同期で、BS11「田中康夫のにっぽんサイコー!」にしばしば出演するなど親交がある。

作家活動

1980年、第1作・小説『なんとなく、クリスタル』を執筆し、同年同作で「文藝賞」を受賞する。同作が執筆された背景には田中の所属していたサークル「一橋マーキュリー」での横領事件(サークル員全員の合意を取らずに資金を流用してサークル用に神宮前のマンションを借りていた事件)がある。当時田中は日本興業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)から内定を得ていた。

この事件により卒業予定日の直前に停学処分を受け留年し、その影響で日本興業銀行への内定は取り消された。この停学期間を利用して、『なんとなく、クリスタル』は執筆された。

1981年3月、一橋大学法学部卒業。同年4月に外資系石油会社のモービル石油(現:ENEOS)に入社(なおフジテレビからも内定があった)。横浜市内で新入社員研修を受け、当初は作家業との両立を志向していた。『なんとなく、クリスタル』がベストセラーとなっていたことや多くのマスコミからの引き合いがあったこともあり、作家業を中心に活動することを決意して3ヶ月で退社する。

人気作家

『なんとなく、クリスタル』の発表以降、幅広い人気と知名度を獲得した。文芸誌で作品を執筆するのみならず、音楽、ファッション、自動車、航空会社、ディスコ、レストランやホテルの分野について、全国紙や各種週刊誌、ファッションや自動車専門誌などで幅広く執筆活動を行う。またメンバーズマガジン「田中康夫のtrend paper」の発行や、マイケル・ジャクソンなどの本の翻訳など、幅広い活躍を見せた。

さらに1980年代から2000年代においては、いわゆる流行作家として「笑っていいとも」や「OH!エルクラブ」をはじめとする多数のテレビやラジオへのレギュラー出演などを行った。

1991年には湾岸戦争への自衛隊派遣に抗議し、柄谷行人、中上健次、津島佑子らとともに『湾岸戦争に反対する文学者声明』を発表した。こうした声明には、田中は元来否定的だったが、声明文を「我々は」や「私たちは」ではなく「私は」とし、個人の連帯とすることで参加した。


 

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