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有山じゅんじ

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Wikipedia

有山 じゅんじ(ありやま じゅんじ、本名:有山 淳司、1953年1月4日 - )は、日本の歌手、ギタリスト。

略歴

音楽が楽しい

大阪府寝屋川市香里園出身。小学生のころから笛が好きで、アマリリスは得意中の得意、鼓笛隊にも参加。洋楽では、姉の影響でドミニクを聞き、「これがおれ(の体の芯(引用者加筆、以下同様))に今もずっと通っているみたい。ずっと、おれ(ギター)弾いてたら「ドミニク、ニク、ニク〜」、そんなみたい(な弾き方)になんねん」と。そして、中学の頃、学校の先生に笛以外の楽器もやれっと言われ、「おばあちゃんに買うても」らったカワイのギターを弾きだした、そのきっかけがマイク真木の「バラが咲いた」。

1967年(中二の終わり)頃から近所の西岡たかし宅に出入りするようになり、1968年には「五つの赤い風船」に参加、テレビ番組『ヤング720』に出演するなど、しばらく中川イサトとも活動を共にしていた。しかし、当時はまだ中学生だったため、高校受験を機に脱退。本人によると、「おれのおかんが「(有山が)勉強せんようになったから、バンドやめさせてくれ」言うて、西岡さんに電話してそれで終わり」になったとのこと。

同志社香里高等学校に入学し、1、2年はブラスバンド、3年になり武部行正と「グループぼく」を結成する等、様々な音楽を聴きながら過ごし、心斎橋ヤマハのアマチュアサークル『ダックス・バンド・クラブ』等で上田正樹や石田長生と知り合う。また、現在まで多大な影響を受けているブラインド・ブレイクを知ったのは、この頃の友達に「こんな雑音ばっかりのレコード聴けへんから、やるわ」と言われて貰った戦前ブルースのコンピレーション・アルバムだった。

そうして同志社大学に進学する。1971年、武部行正とのデュオ「ぼく」として第3回全日本フォークジャンボリーに出演。翌年に武部が『ゆふすげびとのうた』を発表したが、そのレコーディングに有山も参加し数曲でギターやフルートを演奏。

当時の周りの状況としては、同志社大学軽音楽同好会には「ウエストロード」のメンバーが居り、龍谷大学に進学した石田長生は同志社の軽音楽部でギターを弾いていた。

有山は、ブルースやラグタイムだけではなく、「フェアポート・コンヴェンション」や「ペンタングル」等のブリティッシュフォークや当時のシンガーソングライターなども好んで聴いていた。大阪市西成区に住んでいた頃、本人曰く「岸里のジェームス・テイラーと呼ばれていた。」

ウイ・アー・サウス・トゥ・サウス

そして、上田正樹に誘われる。当時の状況を上田は、「有山との出会いはね、・・・何かのイベントで一緒になったの。ジェイムス・テイラーみたいな感じでやってた。フォークギターを弾いてる人って、リズムのいいかげんなケースが多いんだけど、有山はリズムがすごく良かった。・・・そのとき有山は、まだ同志社大学の学生で」大阪府の職員になる考えもあったが、「(上田が)口説いていっしょにやることになった。「サウス」が、かたちになるかならないかの時期」であった、という。「最初は俺(有山)と裕ちゃん(藤井裕)と松浦(善博)とキー坊の4人で、ドラムなしでブルースをルーツにしたオリジナルをやってたな。その時は「上田正樹グループ」って言うとったな。」

こうして、1973年頃から新バンド結成に向けて動き出していた上田正樹と、1974年「サウス・トゥ・サウス」結成。当時のライブ・スタイルは、前半が戦前のカントリー・ブルースやジャグバンド・ミュージック、ホウカム・ナンバー、ラグタイム風のアコースティック・セット、後半がバンドによるファンクやリズム・アンド・ブルース、ソウルミュージックに影響を受けたファンキーなセットとして2部構成で行われた。有山によると、ライブは「・・・大阪ミナミにあった『バハマ』っていう店で始めて、京都の『拾得』でやるようになってだんだん(演奏場所が)広がってい」ったという。

結成当時の状況について藤井裕は、「(「MZA」や「バッド・クラブ・バンド」等「サウス」以前のバンドを)解散して僕(藤井)はキーボー(上田)と一緒に居て、キーボーは、有山じゅんじ(ママ)と一緒にやりたがってて、キーボーが『有山と一緒にせえへんか』ってことになって、僕は『ええよ』って。で僕と有山とキーボーでバンドつくったんです。それが「サウス」の始まりなんです。その時はラグタイムブルースってのを中心にやったんです。・・・で、キーボーが『R&Bもしたいな』って言い出してね。自分もそう思ってるところがあって、じゃ、メンバーもうちょっと集めるかって事になって、それからメンバー集め出したの。」と述べている。

また山岸潤史は、「上田正樹となかまたち」が毎日の文化ホールでコンサートを行ったときに、上田から「有山ちゅうヤツが居って、・・・、(そいつと)いわゆるカントリー・ブルースで、「ホット・ツナ」みたいな、ライ・クーダーとかな、そういうヤツをやんねん」と聞かされ、有山がギター、「(後の)ツイスト」の松浦がスライドを弾いていたのを見たのが有山との初めての出会いであった、と述べる。「イヤイヤ、ああいうスタイルをやるヤツ(バンド)は見たことなかった、おれ。本格的なさぁラグタイムのスタイルやんのさぁ。「憂歌団」は、そのもっと、シカゴ・ブルースのアコースティック版みたいな感じやったからなぁ。」

関東でのブルースに関して、有山は「やっぱり、かっこよかったやん、なあ。おれなんか、逆に憧れたけどねえ。「夕焼け楽団」のケンちゃんのスタイルもそやし、内海さん、「キャロル」の。内海さんのブルースも好きやし。東京は、ああいうブルース」と話すが、このうち井上ケン一に関しては、「サウス」結成当時「(その)ギターに惚れこんで、彼の実家まで押しかけて泊まり込みの勉強をしてきたのはつい最近」とされる。

1975年6月「上田正樹と有山淳司」名義でアルバム『ぼちぼちいこか』、1976年1月「上田正樹とサウス・トゥ・サウス」名義でアルバム『この熱い魂を伝えたいんや』発表。前者ではライブにおけるアコースティック・セットをスタジオで再現。同年発表される「憂歌団」の1stアルバム、「ウエスト・ロード・ブルース・バンド」1stアルバムに先駆けて発表された関西ブルース、ひいてはジャパニーズ・ブルースを代表する作品。後者はバンドスタイルのライブ盤である。当初、メンバーは2枚組での発表を考えていた様だが、レコード会社の意向で半年ずらしての発表となったそうである。2枚のアルバムと1枚のシングルを残し、1976年7月17日解散。

当時の状況、そして自身の演奏スタイルについて、有山は「「サウス・トゥ・サウス」をやる前は黒人の音楽はブルースしか聞いたことがなかった。だけど、やっぱり裕ちゃんやキー坊とかの影響でソウルばっかり聞き出した。そういう意味では「サウス・トゥ・サウス」に入って良かったと思う。・・・「コモドアーズ」も「アベレージ・ホワイト・バンド」も知らんかった。それで、聞いてて面白いから自分でもやりたなる。で、エレキは気持ちエエしな。音が大きいから。」と、サウスの途中からエレキ・ギターも持ちだしたと話す。「今でも、アコースティックでも音が大きいのは多分キー坊と一緒にやってたからやと思う。・・・。キー坊が声をガーと出すと負けそうで腹が立つから、生ギターでも大きな音を出さなあかんのや。」と述べている。

『ぼちぼち』でのギターは、'69年のマーチンO-18にバーカスベリーのピックアップをガムみたいな糊で固定して使っていた。「・・・梅田からナンバまではガットに鉄弦張って・・・。(他は)家内の持ってたギター(O-18)をそのまま借りた。(その)ままね、結婚に至りましたけど。」


 

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