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長谷川町子

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長谷川 町子(はせがわ まちこ、1920年(大正9年)1月30日 - 1992年(平成4年)5月27日)は、日本の漫画家。日本初の女性プロ漫画家として知られる。代表作に『サザエさん』・『いじわるばあさん』・『エプロンおばさん』など。

生涯

生い立ち

佐賀県小城郡東多久村(現・多久市)で父・勇吉と母・貞子との間の3人姉妹の次女として生まれる。実際は姉との間に夭折した2番目の姉がおり、戸籍上は4姉妹の三女になる(『長谷川町子思い出記念館』巻末の年表より)。多久でかつて操業していた三菱炭坑の技師であった勇吉が独立し、ワイヤーロープの事業開業に伴い福岡県に転居、春吉尋常小学校に小学1年生から通った。2、3歳の頃から絵を描かせると上機嫌だった。

小学校時代は腕白な少女であった。自身の小学校時代を振り返って妹の洋子に語っている。また、小学校時代はクラス替えがなく、担任の先生も六年間替わらなかったので、まるで家族のような組だったという。授業中の町子はよく先生の似顔絵を描いており、それを見つけた松本善一先生にチョークを投げつけられ、罰として廊下に立たされたことがある。しかし、町子はそれを逆手にとって松本先生の癖などを漫画にし、その漫画を級友に授業中回して遊んでいた。また、掃除時間になると町子は掃除を怠けて男子とチャンバラごっこなどをして遊んだりしていたが、ある日、女子が男子に泣かされたりした時には、その男子を屋上につれだしてやっつけていたという。得意科目は図画と作文。男子生徒と交替で級長(学級委員長)を務めていたが、自習時間に監督を任されると教室を歩き回り、自習を怠けている生徒の頭を定規で叩いて歩いた。それが原因で喧嘩になることもあったが、負けたことがなかったという。小学校卒業式の朝、男子生徒と喧嘩した挙げ句、校庭の物置に閉じ込め、そのまま式に出たあと家に帰ってしまい、卒業式終了後になってようやく男子生徒は学校の用務員に助けられた。

小学校卒業後は旧制福岡県立福岡高等女学校(現在の福岡県立福岡中央高等学校)に2年生の1933年(昭和8年)まで在籍。同年、父・勇吉が病死。早くに亡くした父への町子の思い入れは深く「とてもハンサムで、素敵な紳士」だったと語っている。子煩悩であるが短気な性格であり、娘達はそれらを受け継いでしまったとも町子は描いている。父の死から一年後の1934年(昭和9年)、娘たちを東京で教育を受けさせたいという貞子の意向で14歳の時に一家そろって上京。山脇高等女学校の3年生に編入するが、いわゆる「お嬢様学校」であったため、方言やお行儀の違いを周囲から奇異の目で見られ、福岡時代のお山の大将ぶりから一転して内向的な性格になってしまった。娘の変化に母の貞子は心痛めていたという。

初期の活動

当時漫画『のらくろ』が一斉を風靡しており、「(原作者の)田河水泡の弟子になりたい」という町子の独り言に姉と母は奔走、山脇高女在学中に田河水泡に師事する。その後、田河の引き立てにより『少女倶楽部』1935年10月号に掲載された見開き2ページの『狸の面』で漫画家デビューする。「天才少女」と題したグラビアも同時に掲載された。田河夫妻に子供がなかったことから、内弟子として田河家で生活するが、ホームシックになり11カ月で出戻る。

1939年に初連載作品となった『ヒィフゥみよチャン』で漫画家としての地位を確立。1940年からは、3人の女学生を描いた『仲よし手帖』という人気連載を持っていた(1942年まで少女倶楽部に連載、戦後は少女にて1949年から1951年まで連載)。

第二次世界大戦中

1944年に入り、空襲からの疎開と徴用回避のため、長野県佐久郡に赴き児童の絵の教師を務める話が一旦まとまった。その後、知人の勧めにより3月に長谷川一家は福岡市百道に疎開、西日本新聞社に絵画部の校閲係として勤務。昼に出勤、4時に退社という軽作業であり、残りの時間は畑仕事をしていたという。

転居後は、終戦直後の1945年9月に西日本新聞社発行の雑誌に読み切り6コマ漫画『さあ!がんばらう』を掲載するまで漫画作品を発表していない。徴用回避の必要がなくなった終戦の翌日、西日本新聞社を退職した。

サザエさん連載開始

1946年(昭和21年)4月22日、西日本新聞の僚紙としてフクニチ新聞社から創刊された「夕刊フクニチ」で連載漫画の依頼が舞い込み引き受けた。自宅の近所である百道海岸付近を妹と散歩をして海辺の風景を眺めているときに登場人物に海にちなんだ名前をつけて『サザエさん』の家族構成や名前を思いついた。磯野家の日常を描いた『サザエさん』は、彼女のファッションも話題となり、人気を博した。当初、本人は「アルバイト感覚で引き受けた」と語っている。

有名出版社から町子と姉・毬子への仕事のオファーがあったため、『サザエさん』は8月22日にサザエの結婚で一旦打ち切りとし、同年の暮れに一家そろって上京する。当時東京都への転入は戦後事情のため制限されていたが、新聞記者という名目で許された。上京直前、母親の貞子が家を売った資金で「サザエさんを出版なさい」と毬子と町子に命じる。

1946年12月に家族4人で出版社「姉妹社」を設立。翌年の1947年1月1日、『サザエさん』第1巻を出版する(定価12円)。1947年1月3日、夕刊フクニチへの連載を再開している。連載を再開する際、打ち切り直前に登場させたマスオの顔を作者本人が忘れていて、西日本新聞社東京支局まで行き確認している。さらに地方紙にも掲載されるようになる。


 

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