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遠藤 要(えんどう かなめ、1915年10月31日 - 2010年6月20日)は、日本の政治家。
宮城県議会議員を経て、参議院議員を4期務め、法務大臣や自由民主党参議院議員総会長などを歴任。
学歴は、白石高等小学校(現在の宮城県白石市)卒業。
1947年(昭和22年)、宮城県議会議員選挙に立候補し初当選し、同県議会議員に就任した。以後通算7回当選し、1971年(昭和46年)には同議会議長に選出された。
1974年(昭和49年)の第10回参議院議員通常選挙に、自由民主党公認で立候補し当選、参議院議員に転身した。以後通算4回当選し、自由民主党内では田中派、竹下派(経世会)を経て、小渕派(平成研究会)に所属した。小渕派時代の1995年(平成7年)には自民党参議院議員総会長に就任し、翌年まで務めた。
1986年(昭和61年)に組閣された第3次中曽根内閣において、法務大臣に就任した。
遠藤が法務大臣就任中の1987年(昭和62年)、帝銀事件(1948年)の犯人として1955年(昭和30年)に死刑判決が確定した死刑囚・平沢貞通が、獄中で病死した。遠藤は結果的に、平沢への死刑執行権限を行使しなかった最後の法務大臣となり、確定死刑囚としての平沢の収監期間は世界最長記録となった。
1998年(平成10年)、 第18回参議院議員通常選挙で落選し、政界から引退した。
2010年(平成22年)6月20日、肺炎のため死去。94歳没。