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三原 綱木(みはら つなき、1945年11月3日 - )は、日本のギタリストで、「三原綱木とザ・ニューブリード」バンドマスター。
ジャッキー吉川とブルー・コメッツのメンバー(ギター担当)。
妻はケイ・アンナ。兄はザ・ベストテンの美術を担当した三原松助。現在の所属事務所はG・ステージ、ニューブリードとしてはタバタ音楽事務所である。
疎開先である母の郷里・新潟県東蒲原郡三川村字綱木村(三原誕生時は合併により三川村。現:阿賀町)生まれ。旧綱木村で生まれたことから名前を付けたが、本来綱木村は"ツナギ"村と読むが、語呂が悪いので"ツナキ"にした。父方の三原家はもと長州藩士。長州藩士はルーツを広島県に持つため、苗字が広島の地名に由来する者が多い。綱木の父方の祖父は吉田松陰や西郷隆盛、桂小五郎とやりとりした手紙を持っていたという。
綱木の生後1年で一家は東京に移り三鷹市に居を構える。当時の三鷹はアメリカ兵を相手にするパンパンが多く、母が開いた「三原洋装店」は、パン助相手の洋服を作ってはバンバン売れて大繁盛し、都内に5店舗を構えるまでになり、その後、はとバスや全国各地のバスガイドの制服も手掛けるようになった。このため家は裕福で綱木も幼少より楽器に親しんだ。末っ子で母に溺愛されたのを始まりとし、パンパンにも可愛がられチョコレートを毎日貰ったため歯を悪くした。小学3年の時、レコード店で米兵がギターを弾いているのを見てギターを買ってもらう。小学4年の時から三鷹にあったギター教室でクラシック・ギターを習い、高校1年の時からジャズギターを勉強し、クラブのジャズバンドに参加する。しかし母が事業に失敗し、もともと勉強が嫌いだった綱木は、私立高千穂高校(東京都杉並区。現在は廃校)を中退する。その後、渡辺プロダクション系列大橋プロダクション所属の「ファイヤーボール」で約2年間の活動を経て、1964年に田村亘の後任としてブルー・コメッツに入った。
「銀色の波」(「北国の二人」のB面)、「マイ・サマー・ガール」(草原の輝きのB面)などのカップリング曲や、「雨の赤坂」「津軽の海」「希望にみちた二人のために」といった、主にブルー・コメッツの中期から後期に掛けての作品など幅広く作曲を担当し、ブルー・コメッツの全盛期を築いた。また、「北国の二人」ではメインボーカルを担当している。
ブルー・コメッツ脱退後は「パイナップル・プリンセス」など洋楽のカバーで知られる歌手の田代みどりと結婚し、「つなき&みどり」として1972年に「愛の挽歌」で再デビューしたが、田代との離婚によりこのデュオは解散。
1976年から8年間は、郷ひろみのバックバンドのリーダーをつとめた。1986年から同じブルー・コメッツのメンバーだった小田啓義の後を継いで、ビッグバンド「ニューブリード」のバンドマスターに就任。以後、「小田啓義とニューブリード」は「三原綱木とザ・ニューブリード」に名称変更。但し、正式にバンドマスターに就任する前年の1985年よりフジテレビ系列の「夜のヒットスタジオ」ではダン池田の後任として同番組限定という形でニューブリードのバンドマスターを務めていた。
「NHK歌謡コンサート」「NHK紅白歌合戦」などのステージで指揮や編曲を担当しており、時には曲調をクラシック風にしてエンディング部分を壮大に盛り上げるなどの大胆なアレンジを見せる。一方、近年はブルー・コメッツを再結成させ、数々の番組に出演している。ものまね王座決定戦でバンドマスターを務めた際には、指揮棒を振りながらもカメラがパンするとカメラ目線で笑うなど画面を意識したリアクションを行った。
2015年11月15日、HIT STUDIO TOKYOにて自身の70歳古希を祝うスペシャルライブ「三原綱木 Happy 70th Birthday LIVE」をザ・ニューブリードのバックバンドと共に行った。