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間寛平

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Wikipedia

間 寛平(はざま かんぺい、1949年〈昭和24年〉7月20日 - )は、日本のお笑いタレント、喜劇俳優、歌手。吉本新喜劇のゼネラルマネージャー。レゲエシンガーとしての活動名義および本名は間 重美(はざま しげみ)。高知県宿毛市出身。吉本興業所属。

愛称は「寛平ちゃん」。身長164 cm、体重60 kg、血液型AB型。既婚。

来歴・人物

私立柏原高等学校卒業。既婚者。妻は吉本新喜劇の元座員で、長男はミュージシャンの間慎太郎。

師匠は花紀京。吉本新喜劇の大スターとして関西で絶大な人気を得た。「アヘアヘアヘアヘ…」「ア〜メマ!」「かい〜の」などのギャグで有名。

来歴

  • 1949年(昭和24年)7月20日、愛媛県との県境にある高知県幡多郡橋上村出井(現:宿毛市)に生まれる。間の姓は母美稲子(1929〜)の再婚相手の姓であり、実父の姓は岡村。実父時一(1926〜49)は寛平が生まれる直前に23歳の若さで結核で亡くなっている。岡村家は応仁の乱から逃げ延びた一条家の家老か何かだったと本家では伝えられており、長らく地元の庄屋をしていたが、明治の頃に一族の一人の放蕩が原因で寛平の実父が生まれた時には集落で一番貧困になっていた。実父は分家筋の出身だが、彼の家は木材の切り出しなどで糊口を凌ぐなど一族全部が困窮を極める有様で育ったため、15歳で地元の営林署の木材切り出し人の給与算出係をし、太平洋戦争の終戦間際に海軍の兵卒に志願する(シゴキと結核に倒れて終戦は入院先の病院で迎えた)という苦労を重ねていた。実父と母の馴れ初めは戦後間もなく地元の青年会の演劇サークルだった。寛平が4歳の時に近所の人の紹介で母は木材の切り出しをしていた男性間幸一(1928〜2012)と再婚し、一家で宇和島市に転居。
  • 木炭の需要減少で林業では食べていけなくなり、12歳の時に大阪市住之江区に引越した。この頃、亡き実父の存在を知る。
  • 1968年 - 高校卒業後、石原裕次郎に憧れて上京。歌手を目指すが、挫折して大阪に戻り、様々な職を転々とし会社員も経験した。
  • 1969年 - 岡八郎らが出演していたラジオの公開収録で岡と知り合い、岡が当時所属していた千土地興行の千日劇場に出入りするようになる。千日劇場の閉鎖後、トップホットシアターを紹介され、最初鳳啓助に弟子入り志願したが、既に弟子がいたために断られ、すっとんトリオに弟子入り。新世界のジャンジャン横丁にあった「温泉劇場」(ストリップ劇場)に入り、幕間コントに"はざま貫平"の芸名で出演して修行を積む。
  • 1970年 - 喫茶店でアルバイトをしていた際に、店主の日限萬里子の紹介により吉本興業に移籍、吉本新喜劇の研究生になり花紀京の付き人になる。同期に桂文珍らがいる。
  • 1974年 - 盟友となる木村進とのコンビで入団から4年、24歳にして吉本新喜劇の座長に昇格。
    • 実質的には1973年10月より平参平班では平・木村、そして間の「三枚看板座長制」という形を採っており(ただし、正式にその班を統率し、脚本・演出内容にも強い発言力を有するという意味での座長には昇格していない。現在の「ニューリーダー」に相当する位置付けであった。)、平の座長勇退→専科入りを機に1974年4月より正式に木村とのコンビで座長へと正式昇格。そして1976年4月からは木村、寛平それぞれ別の班を統率することとなった。
  • 1975年 - 『ひらけ!チューリップ』で歌手デビュー。100万枚のセールスを記録。1976年には同じタイトルの日活ロマンポルノに主演するなど活躍した。
  • 1978年 - 同じ新喜劇の団員だった現在の妻・光代と結婚。
  • 1986年 - アメマバッジを10万個作成し、消費者金融に6000万円の借金。
  • 1989年(平成元年) - 吉本新喜劇を退団して東京進出(ただし、自宅は宝塚に置く)。ビートたけしを頼りたけし軍団加入を希望するが、大阪時代の寛平の活躍を知る、ビートたけしの運転手から諭され入団を断念、その後萩本欽一に師事し、また島田洋七と漫才コンビを結成する(その後解消)。

 

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