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那須正幹

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Wikipedia

那須 正幹(なす まさもと、1942年6月6日 - 2021年7月22日)は、日本の児童文学作家、小説家。代表作は「ズッコケ三人組(1978-2004)」シリーズ。

広島県広島市己斐(こい)(現・西区己斐本町)出身。1978年から晩年まで、山口県防府市に在住していた。

来歴・人物

生い立ち

1945年8月6日、広島市庚午北町(現・西区)の自宅で母親の背中におぶさって被爆。4歳の頃、近所に住んでいた新延輝雄の家に遊びに行き、「インテリぼうや」という渾名を貰ったことがある。

1949年広島市立己斐小学校入学。クラスの3分の1は被爆して親のない子もいた。中学2年生の時に、一年で同じクラスだった女生徒が原爆被爆による白血病を発症し、死亡した。進学した広島市立庚午中学校は、当時荒れて教師による体罰は日常茶飯事、卒業式にはパトカーが待機した。しかし文学の世界に興味を持つようになったのは、中三の時の予科練あがりの型破りな教師の影響という。

幼少の頃から本を読むより外で遊ぶ方が好きな少年だった。特に熱中したのが昆虫採集で、これがもとで当時生物クラブが盛んだった広島市立基町高等学校に進学。この高校で後年発表する『ズッコケ三人組シリーズ』に登場する宅和源太郎先生のモデルになる教師と出会う(ちなみにその教師は、後に有名になった歌手・松田聖子の親戚であった)。

同校卒業後、島根農科大学(現:島根大学生物資源科学部)林学科に進学し森林昆虫学を専攻した。卒業論文のテーマは『マツノシンクイムシの天敵防禦』。大学在学中は友人に誘われて山岳部に所属し、1年のうち100日くらいを山で過ごしたことや北海道の摩周湖で泳いだこともあった。また山岳部に所属していたことが就職活動の面接で話題になり、大学卒業後に上京して自動車のセールスマンになるきっかけとなった。

サラリーマン時代

自動車のセールスマン時代は、東京の江東区北砂を拠点に営業回りをした。昼になると荒川の河川敷に腰をかけ、野球に興じる少年たちを遠くに眺めながら近くの店で買った菓子パンとテトラパックの牛乳を手に「ぼくはこの先何年もこの景色を眺めながらここでこのように昼ごはんを食べ、同じように時間を過ごしていくのだろうか」と物思いに耽ったという。時には中野・練馬あたりにまで足を延ばすこともあった。仕事の上では、ショールームの車を出し入れするときに車を度々ぶつけ、2年間の在職中に8枚ほど始末書を書かされた。

ある日、移動の電車内で乗り合わせた若い女性がサン=テグジュペリの『星の王子さま』を読んでいたことから、その内容に興味を持って読んだのが児童文学とのほとんど初めてに近い出会いだった。

また千葉県松戸市栗山のアパートで一人暮らししていたころ、隣室に住んでいた若夫婦と親しかったが、実はその夫婦が関東一円を荒らしまわる大泥棒で、その所在をようやく突きとめた刑事が那須の部屋で張り込み、隣人夫婦が帰ってきたところで大捕り物があったというエピソードもある。

このように東京での一人暮らしは悲喜こもごも、必ずしも楽しいことばかりではなかった。しかしこうした経験が、楽しさや面白さの中にも奥行きや深みを感じさせる作風に影響していることは、後に作家として発表することになる作品の随所に読み取ることができる。

作家・那須正幹の草創期

こうした東京での暮らしは2年ほどで、まもなく「本人の承諾なしに勝手に異動を決めるような会社はやめちゃる」と会社の配置転換のやり方に反発し退社。広島市の実家に戻ってから家業の書道塾を手伝っていたが、書道の経験はそれまで皆無であり、このままでは父親の死後も塾は継げないと不安を感じていたところ、姉の竹田まゆみに誘われて広島児童文学研究会に参加。参加しようと思ったきっかけは、それまで作家と呼ばれる人たちに会ったことがなかったからという気軽なものだったが、ここで初めて児童文学を創作し『ヒバリになったモグラ』という作品を発表した。その内容は宮沢賢治の『よだかの星』にどこか通じるものがあり、ヒバリになったモグラが太陽に向かってどこまでも飛んでいき、やがては焼け死んでしまうことを髣髴とさせる結末である。そのせいか、同研究会の指導者たちから「この会は新しい児童文学を作ろうとしているんですよ」という批評を受けた。これ以来、那須の創作活動に於いては「新しい児童文学をつくる」ことが大きなテーマになった。

那須は幼少の頃に宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読み聞かせてもらったことがあり、このとき機関車が力強く走るイメージを思い浮べたことから、宮沢賢治の作品は子どもにとって印象に残る内容という感想を持っていたと思われる。ここに那須が初めて書いた創作が宮沢賢治の作品にどこか通じていた理由もあるのだろうが、それを“古臭いんじゃないか”と指摘されたことは、その後の那須が書く児童文学が、常にそれまでにない新しいスタイルを模索する強烈な動機づけとなった。そして同時に(30歳までには必ず本を出そう)と決意した那須は、まさしく30歳を迎える1972年に『首なし地ぞうの宝』で学研児童文学賞を受賞してデビューする。


 

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