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山崎まさよし



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Wikipedia

山崎 まさよし(やまざき まさよし、本名:山崎 将義、1971年12月23日 - )は、日本のシンガーソングライター、俳優。愛称は「まさやん」。

身長176cm、体重64kg、血液型はA型、滋賀県大津市生まれ、山口県防府市育ち。

ライブでの基本はアコースティックギター、ピアノ弾き語り。レコーディングではマルチプレイヤーであり、作品(楽曲「未完成」など)によっては全ての楽器をこなしている。なお、2000年頃よりエレキギターを始める。既婚。

経歴

デビュー前

滋賀県大津市で生まれ、小学校3年の手前まで草津市で暮らす。8歳の時に山口県防府市に移る。引っ越し先で友達ができていくきっかけが地元の太鼓の練習であり、そして同市立牟礼中学校に入学する。中学になると本格的に音楽活動を始める。当時はドラマーであり、多くのバンドを掛け持ちする人気ドラマーだった。

山口県立防府西高等学校卒業後、しばらく厨房で働いた後、1990年頃から日中は中関港のマツダ防府工場で、船内の自動車をベルトで固定する荷役の労働に従事して、夜は周南市にあるライブハウス「Boogie House」でライブ活動をするという日々を1年半過ごした。この「BoogieHouse」に出演交渉に行った際、「ライブをやりたいけど、どういうスタイルでやればいいのか分からない」と悩んでいた山崎だったが、マスターの森永正志(2012年食道ガンで逝去)は「ブルースはどうか」と、カセットテープにライトニン・ホプキンスを吹き込み手渡した。山崎はカセットを聞き非常に感銘を受け、ギターの弾き語りと作詞・作曲、いわゆるシンガーソングライターとしての活動を本格的に始めるようになった。その後も森永との師弟関係は続き、後に山崎は公式ファンクラブを立ち上げることになった際に、このライブハウスの名前から「BOOGIE HOUSE」と名付けている。

1991年、レコード会社「キティ・レコード」と映画製作会社「キティ・フィルム」を混同し、キティ・フィルム主催のアクター・オーディションを受けてしまうというミスをやらかす。同オーディションは応募者が1000人以上という規模の大きいものであったが、俳優のオーディションだと山崎が気づいたのは、同年7月に行われた東京での最終審査の直前であったという。最終審査の場で、山崎は自作の歌「Rough Rock'n Roll Boogie」「中華料理」を歌い、「新人歌手のオーディションだったら間違いなく合格」という評価を受けるものの、歌手のオーディションではなかったため、審査員特別賞に終わった。しかし、「歌える役者が欲しい」という目的で審査員をしていたキティ・レコードの音楽プロデューサーに見いだされ、1993年春にキティ・レコードと契約・上京することが内定。山崎は帰郷後デモテープ制作に没頭するものの、何故か1992年10月に上京。上京直後はその音楽プロデューサーの家(恵比寿)に居候していたという。程なく横浜市桜木町に居を構え、マネキン人形運びのアルバイトをする傍ら、オリジナル曲の制作も行いつつ、ライブハウスへの出演や杏子へ楽曲提供、CMソングの仕事や永瀬正敏・三上博史のアルバムにスタジオ・ミュージシャンとして参加するなど下積み時代を過ごす。

1992年11月、RCサクセションの「トランジスタ・ラジオ」のカバーシングルを、キティレコードからリリース。1994年(平成6年)3月からはフジテレビ系深夜番組『寺内ヘンドリックス』に準レギュラーとして出演。この時期、山崎自身のアルバム・レコーディングも開始されたが、キティ・レコードの経営悪化に伴い、山崎のデビュー話が浮く形になる。山崎を見出した音楽プロデューサーはキティ・レコードを退社。その音楽プロデューサーが別のレコード会社に山崎を売り込みに行き、山崎はひたすら創作に没頭するという「不遇の時代」を過ごす。なお、この音楽プロデューサーは後に山崎のチーフマネージャーになっている。

デビュー後

1995年初頭にポリドール・レコードと契約がまとまり、同年9月にシングル「月明かりに照らされて」でメジャー・デビュー。デビュー時のキャッチコピーは「天才より凄いヤツ」。

1996年(平成8年)2月、セカンドシングル「中華料理」をリリース。4月には、約2年のレコーディングを経て完成したファースト・アルバム『アレルギーの特効薬』を発表した。本作品の思い出として、後にインタビューでは「ただ出せるだけで嬉しかった」と、思い入れの深さを語っている。同年9月には、後にSMAPがカバーすることになる「セロリ」をリリース、12月にはイベント・ライブ「Act Against AIDS」に参加した(同イベントには、この年以降も不定期で数回出演)。

公式ファンクラブが発足された1997年(平成9年)1月、初の主演映画である『月とキャベツ』(監督・篠原哲雄)が公開される(文部省推薦映画)。映画のテーマ曲「One more time, One more chance」もほぼ同時期に発売。同シングルは徐々にチャートを上昇するロング・ヒットとなり、一躍知名度が上がった。ライブで頻繁に歌われる楽曲が多く収録されたアルバム『HOME』(1997.5.21)も、オリコン・アルバムチャートで最高4位を記録。

1998年(平成10年)4月、北海道札幌市にあるZepp Sapporoのこけら落しライブ「福耳」に杏子、山崎まさよし、スガシカオの3人で出演。音楽ユニット "福耳" の実質的な誕生となった。同年10月には、初めての連続テレビドラマ『奇跡の人』(YTV系、1998年(平成10年)10月 - 12月)に主役級で抜擢される。主題歌の「僕はここにいる」はオリコン・シングルヒットチャート初登場3位を獲得し、自身初のベスト3入りとなった。この1998年(平成10年)については、シングル曲を決める際に初めて自己主張をして「水のない水槽」がシングル化された点を挙げ、「自我が目覚めた年」と語っている。

1999年(平成11年)7月末、NHKの番組企画でアメリカ・ミシシッピ州に赴き、伝説のブルースマンハニーボーイ・エドワーズや名ブルースプレイヤーのR.L.バーンサイド等とブルースセッションをした。11月には、3か月独りでスタジオにこもって制作したというアルバム『SHEEP』を発表した。

2000年〜


 

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