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柳家喬太郎

柳家喬太郎



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Wikipedia

柳家 喬太郎(やなぎや きょうたろう、1963年11月30日 - )は、東京都世田谷区出身の落語家・俳優。落語協会所属。本名?小原 正也。出囃子は「まかしょ」。紋は「丸に三ツ柏」。通称「キョンキョン」。

経歴

落語家になるまで

小学校3年生まで世田谷区の大蔵団地で育ち、のち横浜市に移った。子どものころの愛称は「マーちゃん」であった。父親は1931年生まれのコピーライター、大原有貴の名前で「鳥追い道中」などの歌謡曲の作詞もしている。少年時代は「ウルトラマン」シリーズや「ゴジラ」などの怪獣映画をこよなく愛し、現在も落語界きってのウルトラマンフリークとして知られる。高校生時代の部活は映画研究会だった。

落語を好きになったのは中学時代からであった。横浜市港北区の日本大学高等学校から子ども時代に住んでいた団地近くの日本大学商学部経営学科へと進学、経商法3学部の落語研究会(日本大学経商法落語研究会)に入って「砧家駄楽」を名乗った。高校時代から大学では落研に入ろうと心に決めていたが、当時、自分から落研の門を叩く人間は少なかったため、先輩からは大いに驚かれたという。日大落研では度胸をつけるために「ストリート落語」をしたり、失恋して最も傷ついた相手の女性の名を叫ぶなどの荒修行をおこなった。落語づけの毎日で、老人ホームの慰問や成人式の催しで落語を演じ、そのため自分の成人式には出なかったということさえあった。4年生の時には関東大学対抗落語選手権で優勝した。

また、大学在学中に本名でフジテレビ「欽ドン!良い子悪い子普通の子おまけの子」に「悪い下宿人」として出演している。欽ドンのスタッフから大学の落語研究会にオーディション依頼の電話が来て、当時渉外係だった本人は数人の会員と一緒にオーディションに行ったが、自分だけが合格したという経緯がある。一か月、欽ドンで前説を務めた後に本編に起用された。

下宿人( - 1984年12月10日)

  • 普通の下宿人(普通村) … 黒田アーサー
  • 良い下宿人(良村) … 金原亭駒平(現・金原亭世之介)
  • 悪い下宿人(悪村) … 小原正也(現・柳家喬太郎)

テレビ出演もしていたため、周囲の誰もがそのままプロになると思っていたが、日大卒業後は大手書店(福家書店)に入社した。のちに夫人となる女性とはこの書店勤務時に知り合っている。喬太郎は自身を振り返り、「落語で食べていこうとは思わなかった。こわかったんです。好きだっただけに、畏怖の念があった。それに僕は、普通の人生が送りたかったんです」と述べている。書店員としての生活は、もともと本が好きだっただけに充実していたものの、落語への情熱は冷めやらず、ついに落語家になることを決意して約1年半で退職。

落語家入門以降

1989年(平成元年)10月、人情噺で知られる柳家さん喬に入門する。新作落語の旗手である三遊亭圓丈から強い影響を受けながらも、正統派の落語を学ぶためにさん喬を師匠に選んだといわれている。初高座は1989年12月29日、新宿末広亭で「道灌」を演じた。

喬太郎は、「夜の慣用句」や「ほんとのこというと」「午後の保健室」などをはじめとする数々の新作落語で知られるが、師匠譲りの古典落語も巧みに演じる。現在では人気落語家の一人に数えられる存在であるが、売れるまでには様々な仕事を経験しており、アダルトアニメの声優もしたことがあるという。

1998年(平成10年)、NHK新人演芸大賞の落語部門で新作落語「午後の保健室」を演じ大賞を受賞し、一躍名を知られることとなった。2000年(平成12年)3月に林家たい平と共に12人抜きで真打に昇進した。同年5月には日本テレビ系「笑点」に出演している。

2003年(平成15年)、春風亭昇太らとともに「SWA(創作話芸アソシエーション)」を旗揚げした。SWAでの背番号は「6」。2009年(平成21年)発行の『今おもしろい落語家ベスト50』(文春MOOK)では第1位に選出された。2013年(平成25年)6月5日、東京お台場のライブハウス"Zepp DiverCity"で開催された初の落語会に桃月庵白酒、柳家三三とともに出演、「そば清Q」を演じた。


 

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