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柳家 蝠丸(やなぎや ふくまる)は、東京の落語家の名跡。当代は二代目。
初代 柳家 蝠丸(1883年? - 1943年10月24日)は、落語家。息子は同じく落語家十代目桂文治。本名?関口 由三郎。享年は61だが、本人が年齢を誤魔化していたため実際の生年月日などは不明。
群馬県館林市の士族の倅。小学校は1年半位しか行かず、9歳で八百屋に奉公に行かされる。その後米屋に移るも長続きしなかった。
1907年3月、三代目柳家小さん一門に入り柳家小よしを名乗る。1917年2月に(初代)「柳家蝠丸」を名乗る。以降関東大震災を挟んで中立会、東西会などで活躍した。
晩年は酒の呑み過ぎで胃潰瘍になり、1943年10月24日に突然脳溢血で倒れ死去した。戒名は慈眼院誠心由然居士。墓は青山一丁目の玉窓寺にある。
葬儀に講談の六代目一龍斎貞山が側にいた実弟に「59でお亡くなりになるとはまた若死でしたな」と言ったところ「冗談じゃない、そんなはずはありませんよ。何しろ弟の私が60なんですから。」と答えていたということから、実際は1883年以前ではないかと思われる。公式の生年月日の記録としては1886年4月6日ということになっているがこれを逆算すると今度は57歳となり計算が合わない。
社会風刺の毒舌の新作落語を売りにした。現在でも演じられる「女給の文」(ラブレター)・「電車風景」などの落語を創作し今日に伝えている。
ほかに小噺やマクラだけの会を1931年ころから「落語指南会」を主催していたこともある。
また奇人・変人で有名であった。私生活ではメガネをかけていた。
二代目 柳家 蝠丸(やなぎや ふくまる、1954年9月29日 - )は、青森県むつ市出身の落語家。落語芸術協会所属。出囃子は『どて福』。本名:中島 俊一。