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ウィリアム・バトラー・イェイツ

ウィリアム・バトラー・イェイツ



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Wikipedia

ウィリアム・バトラー・イェイツWilliam Butler Yeats、1865年6月13日 - 1939年1月28日)は、アイルランドの詩人。多くの戯曲・散文を残し、批評家・思想家としても重きをなした。現代詩の世界に新境地を切りひらき、20世紀の英語文学、現代詩において最も重要な詩人の一人とも評される。

イェイツは幼少の頃から親しんだアイルランドの妖精譚などを題材とする抒情詩で注目されたのち、民族演劇運動を通じてアイルランド文芸復興の担い手となった。また民俗学の方面でも優れた業績を残して「ケルト復興運動」の立役者の一人となった。生涯のほとんどをイギリスを拠点に活動した。

1922年から6年間アイルランド上院議員も務め、1923年にはノーベル文学賞を受賞。英詩としては、現実と対峙し唯美主義を脱した後期の詩集『塔』(1928年)、『螺旋階段』(1933年)等が最も高く評価されており、日本では能の影響を受けて執筆した戯曲「鷹の井戸」(1916年初演)や、初期の抒情詩「湖の島イニスフリー」などが広く知られている。

来歴

アイルランドの宗教・社会構造と出自

1865年6月13日、イングランドの支配下にあったアイルランドのダブリン県で、イングランド植民者子孫の家に生まれた。イェイツ家は、6代前にイングランドのヨークシャー地方から移住した、いわゆるニュー・イングリッシュ?で、曾祖父と祖父はアイルランドのイギリス国教会系のプロテスタントの教区牧師だった。曾祖父の母はオールド・イングリッシュの名家でキルデア県の貴族バトラー家の血を引いており、イェイツ家はバトラー家との婚姻関係を誇りに思い、イェイツのミドルネームはこれにちなんでいる。貴族の血を引くイェイツ家もキルデア県にわずかに土地を持ち、不在地主として地代を得ていた。イェイツ家の家風は厳格で、イェイツは「何か居心地の悪い重苦しいものを感じた」と語っている。

イェイツ家は、アングロサクソンのプロテスタントであるアングロ・アイリッシュで、ゲーリック・アイリッシュと言われる土着のケルト系ローマ・カトリック(アイリッシュ・カトリック)の人々からは区別される存在だった。彼の幼年時代は、プロテスタント・アセンダンシー(アイルランド征服に従って移住したプロテスタントの子孫で、アイルランドにおける排他的・優越的な地主の支配者層)と、カトリックの小作人、という支配者・被支配者の構造がはっきりとあった。「アングロ・アイリッシュのもつ孤独」は、幼年時代のイェイツのジレンマの核となった。多数派のカトリックとは信仰を共有できず、プロテスタントに対しては物質的な成功への関心に反発を感じた。

ジョン・バトラー・イェイツは法律を学んで弁護士資格を取り、法律家として将来を嘱望されていたが、結婚後に画家になる決意を固め、後に肖像画家になった。母スーザン・イェイツ(旧姓ポレックスフェン)はアイルランド西部スライゴの裕福な商人の家の娘で、美しく感受性豊かで、この地方の民間伝承に深く親しんでいた。漁師たちの間に気軽に入り(夫はそうした行いを嫌っていた)、彼らに伝えられた伝承や物語を聞くことを好んだ。母は不安定な画家の生活に失望し、家事も上手ではなく、4人の子ども達にとってあまり良い母親ではなかったという。実家のあるスライゴに激しい愛着を持ち、アイルランドを離れることを嫌い、長い病弱の生活で内向的な性格を強めていった。

イェイツ家の祖先には、イギリスやイギリス人に反感を持ったり、アイルランドのカトリックに同情的な人もおり、父ジョンは政治に無関心な穏健な画家だったが、芸術家でないイギリス人には冷淡であり、母のポレックスフェン家の人々は王党派プロテスタントで、カトリックや愛国主義者を軽蔑していたが、にもかかわらずイギリス生まれの人々に反感を持っており、イェイツの周囲には反英的な空気が漂っていた。

イェイツ家は芸術一家で、妹のスーザン・メアリー・イェイツ (リリー) とエリザベス・イェイツ(ロリー) は画家・工芸家・デザイナーになり、ジャック・バトラー・イェイツは父と同じ画家になった。

幼年期から第一詩集まで

イェイツが2歳のとき一家はロンドンへ移った。以後幼少期をロンドンで過ごし、激しい民族的偏見の中で学校生活を送った。

一家はアイルランド港町スライゴの裕福な船主だった母方の祖父の家をたびたび訪れ、彼は学校の休みのほとんどを祖父母の元で過ごした。母や、多くの海洋冒険講をもつ剛気な祖父、土地や家にまつわる物語や不思議な体験をもつ祖母、変わり者の叔父ジョージ、多くの伝承説話(『ケルトの薄明』に収録)の語り手であった女中のメアリー・バトルといったポレックスフェン家の人々は、イェイツにとってアイルランドの伝承を受け継ぐ親密な伝承集団であった。イェイツは後年に書いた『自叙伝』で、幼い頃弟の死の前夜に、母と使用人が妖精バンシーの泣き声を聞いた、という逸話を書き残している。スライゴの美しい風景や、母やポレックスフェン家の人々等から聞いたアイルランドの習俗や妖精伝説は、スライドをイェイツの原風景とし、アイルランドへの愛着、アイルランド人としての自覚をはぐくみ、後の詩作の重要な着想源となった。また、8、9歳の頃父にウォルター・スコットの『最後の吟遊詩人の歌』や『アイヴァンホー』を読んでもらい大きな感銘を受け、『最後の吟遊詩人の歌』から、大きくなったら魔法使いになる夢を抱いたという。

幼年期から青年期は、プロテスタント・アセンダンシーが没落し、新勢力にとって替わる時期であり、15歳の頃にイェイツ家の所有地の土地争議で地代収入が途絶えている。

1881年に一家はダブリン県へ戻る。父親と同様に画家を志してメトロポリタン美術学校に入学し、ここで他の芸術家や詩人と出会った。執筆を開始し、ダブリン大学の同人誌に「彫像の島」(The Island of Statues)と題する牧歌劇の習作を連載している。

父とその画家仲間はラファエル前派の中心人物たちと関わりがあり、イェイツは1980年代からラファエル前派と関わりがあった。彼は父の強い影響下にあり、15、16歳の頃、父からウィリアム・ブレイクを教わり、父のブレイク理解はラファエル前派的なものだった。また、父にブレイクと共に「画家詩人」として勧められたラファエル前派のロセッティに「他の絵がかすむほど」の強い影響を受ける。


 

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