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百地 丹波(ももち たんば)は、安土桃山時代の伊賀国の土豪。江戸時代前期に菊岡如幻が著した軍記物「伊乱記」に記録が残る。
百地氏は伊賀国名賀郡喰代(現伊賀市)の武士で、同国名張郡から大和国宇陀郡に渡る地域である竜口(現名張市、宇陀市室生)の地頭でもあった。出自は大江氏を自称し、実際に中世において東大寺の荘園 (日本)黒田荘の荘官で悪党としても活動した大江氏があり、その末裔といわれる。また伊勢国司北畠氏の末裔ともいう。
織田信長の次男織田信雄が天正7年(1579年)に伊賀攻めを始めた。「伊乱記」によれば、百地丹波は鬼瘤越に進軍する柘植保重らの軍勢と戦ってこれに勝利した。この戦いで伊賀衆は、信雄の拙い指揮もあって織田軍を撃退したものの、天正9年(1581年)に信長自ら5万の大軍を率い侵攻を開始する。これに対して丹波は諸将とともに柏原城に籠もって抵抗したが、衆寡敵せずに開城した(天正伊賀の乱)。
史跡として、喰代の城谷と呼ばれる地区に百地氏城跡が残る。また名張市竜口には百地屋敷と称する旧家がある。物語などでは石川五右衛門は百地三太夫の弟子とされ、今日三太夫を丹波と同一視されることが多いが、根拠は特に存在しない。