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矢来観世家(やらいかんぜけ)とは、能楽シテ方観世流の職分家のひとつ。観世九皐会を主宰し、分家観世銕之丞家の分家筋にあたる。梅若がかりの芸風を持ち、流内で宗家、分家、梅若両家に次ぐ格式と規模を持つ。
明治時代、銕之丞家四世の観世清済の次男源次郎氏演が、初世梅若実の婿養子となって五十三世梅若六郎を相続・襲名したものの、後に実に二人の実子(初世梅若万三郎・二世梅若実)が生れたので観世姓に復し、分家したことにはじまる。分家後、源次郎は観世清之(かんぜきよし)を名乗った。清之が一旦は梅若家へ入った事情により、芸系は梅若流に属する。
明治40年(1907年)、矢来観世家は丸岡莞爾の観世流改定本刊行会(現能楽書林)と協力し、それまでの謡本とは一線を画す改訂本を独自に刊行したが、これが当時の能楽界において問題となった。江戸時代以来の慣行として、流儀の謡本は宗家にのみ版権が帰属するとされていたからである。そしてこの事について宗家と清之の間で裁判となったが、結果は大審院において清之側の勝訴が確定した。以来能楽書林とは深い関係にあり、現在でも同社から独自の謡本を発行して使用している。しかし梅若流独立騒動の際には宗家側に立ち、最後まで観世流にとどまった。