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日立市

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Wikipedia

日立市(ひたちし)は、茨城県北東部の県北地域にある太平洋に臨む市。市域の大半は旧多賀郡で一部は久慈郡である。総合電機メーカー・日立製作所の創業の地として知られる。

概要

日立鉱山から発展した鉱工業都市である。1905年(明治38年)、江戸時代から採掘されていた日立村の赤沢銅山を久原房之助が買収し、村名にちなんで日立鉱山に改名、久原鉱業所(現在のJX金属)を創業。以来、日立製作所・日立グループの企業城下町として知られるが、主力工場が三菱重工業に移管され、現在は三菱重工業の企業城下町でもある。他に、日立市と同様に鉱山町から企業城下町になった地域としては愛媛県新居浜市(別子銅山→住友グループ)や山口県宇部市(宇部炭鉱→宇部興産)が代表的である。

7世紀の国造の時代から、現日立市の中心部は助川(すけがわ)という地名だったが、1939年(昭和14年)9月1日に助川町が日立鉱山を擁する日立町と新設合併して市制を敷く際に日立市となった。日立市民は都市名と企業名の混同を避けるために、都市名を『日立(ひたち)』と呼び、日立製作所を『日製(にっせい)』と呼んで区別している(日製の略称はかつての日製産業=現在の日立ハイテクノロジーズなど日立グループでも用いられる)。

人口は戦後の一時期は県庁所在地の水戸市を上回っていたことがあるが、近年は日立グループの再編などによって人口が減少し、最盛期には21万人いた人口も十王町の編入後でも20万人を割り、現在はつくば市にも抜かれて県内3位である。人口の半数近くは日立製作所および三菱重工業関連の従業員とその家族である。

市名の由来

1939年(昭和14年)に、旧日立町と旧助川町が対等合併して「日立市」となる。なお、日立という地名は以前から存在しているが、後述の通り合併時の新市名を決める際には日立グループの知名度が命名理由の一つになっている。

日立村の誕生

明治から昭和にかけて行われた大合併の影響を受けており、村から町、町から市という流れを経て行政区域ならびに行政種別が変化してきた。行政区域または地名において、『日立』という名称が初めて使われたのは、1889年(明治22年)に旧宮田村と旧滑川村の合併によって誕生した「日立村」である。

佐藤敬忠の存在

日立村の誕生にあたっては、明治7年に記された「佐藤敬忠事蹟書上」や、大正後期にまとめられた町政移行時の史料が詳しい。なお、同史料は原本が消失しており、昭和32年に日立市が行った「日立市史編纂事業」の過程で行われた写本でのみ確認できる。

宮田村と滑川村が合併して誕生した日立村であるが、文字通り、合併元の村に関する名称(文字)は含まれていない。「日立」の由来については後述する徳川光圀由来説なども存在するが、現存する書物、史料、日立市の歴史編纂活動によって、佐藤敬忠の影響が大きいことが明らかになりつつある。

1863年(天保7年)、佐藤敬忠は、旧中里村(現在は日立市に編入合併)にあたる久慈郡中深萩村の會澤家の三男・敬忠として生まれた後に、宮田村の豪家である佐藤家の養子になり、佐藤敬忠となる。

敬忠は水戸藩主に仕え、藩内で起きた乱を鎮めるなど多大な功績をあげた。その結果、1868年(旧暦明治2年)からわずか4年間で、助川村から折笠村に至る7村の区長を命じられるに至る。その後、さらに掌握範囲を広げ、水木村から里川新田(旧里美村、現在は常陸太田市に編入)までの広大な範囲を治めた。里川新田については、江戸時代末期、旧里美村と周辺河川を含めた新田開発事業として藩をあげて進められた事業であり、当時の事情を鑑みると新規開発地域も任された意味は大きく、現在の日立市と旧里美村における敬忠の影響力は絶大なものであったと推測される。実際に1873年(明治6年)から始まる「地租改正」までの間に、7村における区長、34村の学区取締を任されていた。


 

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