唐組と東京乾電池のコラボレーション公演が実現する。劇作家の川村毅氏と柄本明氏は、映画出演をきっかけに20余年、念願がかない2014年に川村毅氏が柄本明氏を主演に書き下ろし演出した舞台、ティーファクトリー公演『生きると生きないのあいだ』を上演。それからおよそ4年、劇作家と演出家としては初のコラボレーションとなる。
前作から4年、出会いと新作までを振り返る
川村「たまに会ってはいたよね、でもあまり親しくはないのね」
柄本「そうそう! そういう事なんだよ」
川村「だからいいのかもしれない、この4年ぶりはちょうど良かったのかな」
柄本「この世界にいると“相性”があって、たぶん合ってなくはないんだよ。合っているとも言えなくて、悪くないんだよね。初対面は劇団「状況劇場」の1986年舞台『少女仮面』で川村さんが老婆をやってた時かな(※註)。この劇団は終わると酒を飲みに行くんです。俺が座っていたら、この人が俺の横に来たの。先輩後輩で言えば私の方が先輩なんだけど、いきなり“あーー疲れた”て、足を投げ出して(笑)、こいつ態度デカいなって(笑)……でも全然嫌な感じではなかったね」
※註:唐組の前身、唐十郎氏率いる状況劇場の紅テント公演『少女仮面』(1986年)に、川村毅は俳優として老婆役で客演している。
川村「(笑)」
――― 同じ空気感を持っていた?
柄本「同じ空気なんて持ってる訳ないじゃない、別の人間だから(笑)」
川村「匂いはかなり違うと思うけど、お互い嫌な匂いではないってことかな」
柄本「東京の人?」
川村「うん」
柄本「だからそこは近いかもしれない。やっぱりね、話していて東京の人間はわかる時がある」
川村「東京の人は欲は深いけれど、表出の仕方が違うのではないかな。絵にかいたような熱血漢ではないような」
――― 『生きると生きないのあいだ』当時の印象は?
柄本「俺は人の書いた本はわからないんですよ。でも仕事なのでセリフを言うわけですよ。俺がこの人に感じたのは、非常に淡白な感じがするね。そんなにベタついていない良さがありますね。あとこの人自体、役者の事をそんなに好きではないだろうと」
川村「そんなことない、ない(笑)」
柄本「俺にとってはこの事は重要で、その方が楽な所がある。これは小説ではなく戯曲だから2次元で終わらなくて3次元に立ち上がるものでしょ?演出を一生懸命にやらないという事ではないけど、俳優さんにそんなに触ってこない感じがするな、そんな印象を受けました」
川村「うん、そう思っているだろう柄本さんという役者が非常にやりやすかったですね。僕は役者に触っていかない演出家ですね。触って欲しくて欲しくてしかたない人もいるんですよ。そんな時は演出家を演じますね。触ってくれなきゃ演出家じゃないみたいなイメージがあるけど、柄本さんの時には一切そういうことがなく、とても自然に演出できた」
柄本「色々な演出家がいるけれど、演出、俳優ということに誤解があると思いますね。何かやらなきゃいけないのが俳優だと思われているよね。『私は何をやったらいいんでしょうか?』と聞く。そんなことは自分で考えてほしいけど何か言わなくてはいけない羽目になっていく。この地獄のような残酷な悪循環、これが日本の演劇界ですね。これはダメですね」
――― 昔演劇部にいたので、当時思い出してドキドキします。
柄本「そりゃ嘘はつくよ。俺も一応演出家をやってるから『お前、ここだからな!』『はいっ』って。そのサマが面白いのよ」
川村「なるほどねえ」
柄本「それを真に受けてやる奴を笑うのよ。人間は残酷だと思うよね。そんな時もあるんでしょ?」
川村「どうなんですかねえ」
柄本「仕事で見ていると、ちゃんとした俳優さんは黙ってる、何も言わない」
川村「わかならくても、わからないとは言わない。『このセリフがわからない』という人がわからないの。わからないに決まってるじゃないって」
柄本「すでに書いた人もわからなくなってるよね」
川村「書き終わった時点でもう違うものになっていますからね」
フイルム・ノワールやハードボイルドというジャンルの面白さは、人間同士のゴタゴタと関係性
――― 本作についてお聞きいたしますが、上演するきっかけは?
川村「東京乾電池の伊東潤が何かをやりたいという所から始まって書き下ろして欲しいと。柄本さんが演出するということだから引き受けました。それに唐組と乾電池がやるのは滅多にないことだから、ほぼ初になるのかな?」
柄本「昔(1982年)、唐組の『秘密の花園』に乾電池で出演しましたが、演出では初めてだね」
――― 黒社会に生きる男性6人、全員が腹黒い設定です。
川村「フイルム・ノワール(退廃的な指向性を持つ犯罪映画)やハードボイルドというジャンルの面白さは、人間同士のゴタゴタ、関係性ですよね。そこを芯にしてやろうかなと思って」
――― 演出の構想などは?
柄本「まだ全然わからないですね、やってみないと。それを答えられる人が不思議というか、まだ始まっていないのでわからないの、まだ本を読んでなくて」
川村「そりゃわからない(笑)」
柄本「目は通しますけど、読まないの。僕が演出で何を始めるかと言うと、最初のト書きと冒頭シーンだよね。とにかく最初の所を生かしてその通りにやってみる。そうすれば何かが始まってくるんです。その時点でこの人が書いた世界からは離れている訳です。それでね、(読むことが)初めてがいいの、疑問があるから更に探せるんです。つまり読むということはそういう事。
でも『すみません、ここの何かとはなんでしょうか?』こんな質問、作家は困るじゃない。つまり聞く方としては、こういう質問をして作家を困らせて優越感に浸りたいという事が深層心理の中にあるよね。演劇の稽古風景の中にはそんなバカな奴がいっぱいいますよね。それを感じている人たちがいれば、その稽古場は大丈夫だよね。僕の演出はそういうことですね。本を読み込んでいく方法をとったことはないし、それをどうしていくかなんてわからないよね」
川村「この物語はジャズセッションから始まります。男達は過去に悪事をしているんです。その事をばらすと脅迫する“カナブン”と名乗る奴が現れ、そこにまた変な奴らが関わってきて、お互い疑心暗鬼になり右往左往する物語です。けっこう2転3転あるので、詳しくお話しできませんが『カナブンが誰なのか?』ですね。お互い誰も信じてないんだけど、でも一緒にいる関係性が見どころです。中年から初老の正道からは外れてしまった男たちの心情が書きたくて。アメリカン・ハードボイルド、フレンチ・フイルム・ノワール的なテイストを全面的に出して楽しんで書きました。最終的にはコメディですから楽に観て欲しいですね」
柄本「具体的に参考にした作品はあるの?」
川村「いろいろあります。観てあてるのも楽しいかもしれない」
出演者は唐組から3名、東京乾電池から3名の6人が男たちの挽歌を描く
柄本「出演者は作品を観ているので知っていますが、初めての共演もいらっしゃるので、どうなるのか楽しみですね。それぞれが楽しんでやってくれたらいいね。でもね、楽しむって難しいよ。楽しむということはどういうことか。稽古場をどういう風に作っていくか、(変な意味ではなく)本番なんてどうでもいいんだよね。やっぱり稽古場が楽しくないとだめですね、ケラケラしているのが楽しいの。いい話をしているときに寝てるやつがいるとさ『おいそこの!今の話をきいておけ』っていうのはダメね。寝られる稽古場、勝手に起きるからいいんですよ」
川村「寝てるふりをして全部聞いていたりしてね」
柄本「前作でこの人の本を初めてやったけど、やっぱりわからないんだけど泣けるね。演劇に対してはちゃんと絶望している感じがするんだよね。それが無いとね、希望よりもまずはそっちから行かないとね。そこから何か一粒のキラキラするもをその人が発見して、誰にも見せないでそっと隠しておくんだよね」
川村「さっきも言ってたけど、ぼくの戯曲をやろうとする演出家は往々にして難しく読みすぎちゃう。もっと単純にやってもらっていいと思うんですけどね」
柄本「それはさ、結局俺はやってるってことでしょう?」
川村「そうそう!自己顕示したいんだよね、どこかに自分を入れたくて自己主張が激しいよね」
柄本「本当に頭が悪いと思うんだよね」
川村「(笑)」
柄本「みんな人の為になりたいんだよ。でもさ見せないほうが得だよって言いたくなるよね」
――― では最後にメッセージをお願いします。
川村「2018年がこの作品でスタートすることは非常に楽しみな1年になるだろうなと予感しています」
柄本「いい年であればいいね。こういうご縁をいただいて、川村さんの作品を演出させていただきます。この人の作品だから演出するので面白くなればいいな」
(取材・文&撮影:谷中理音)