人間とは何か? そのアイデンティティをめぐる物語が、笑いとユーモアの中で予想もできない方向に進んで行く、ブレヒトの初期の喜劇『Mann ist Mann』。この戯曲が、串田和美によって歌やダンスを散りばめたエンターテイメントに仕立てられ、一種のキャバレー演劇として2019年1月横浜のKAAT神奈川芸術劇場と松本のまつもと市民芸術館他で上演される。客席最前方のS席=テーブル席は食事付き、A席でも会場で購入したドリンクを楽しむことが出来、食べながら飲みながら、会場全体が演劇空間になった世界を体感できる刺激的な試みだ。そんな作品を構築する串田和美が、作品に込めた想いと多様性と革新を求め続けてきた「演劇」に対する姿勢を語ってくれた。
19世紀末にアーティストが詰めかけたキャバレーを再現して創る芝居
――― KAAT×まつもと市民芸術館共同プロデュースの「冬のカーニバル」ということですが、この構想のきっかけというのは?
「元々まつもと市民芸術館では、音楽と役者とサーカスとで行う「空中キャバレー」という演目を隔年でやっているんです。松本はとても寒くて2月は本当に深閑としてしまうので、何とか冬を盛り上げられないかと。そこへ今年の春に信濃毎日新聞社の新社屋、信毎メディアガーデンが出来て。上のフロアにオフィスが入っているのですが、1階〜3階までを街の広場として提供しようと言う事で、そこで僕も音楽や朗読をやってきて、初めての本格的な冬を迎える今、冬をカーニバルの季節に出来ないかな?と考えていた。それが、白井晃さんとKAATで何かやろう!としていたものとつながっていくといいかな?と思って「冬のカーニバル」と命名しました」
――― 冬だからこそ熱く盛り上がろう!という意図なのですね。その作品にブレヒトの『Mann ist Mann』を選ばれたのはなぜですか?
「KAATの芸術監督の白井さんが「アンチリアリズム」というコンセプトを掲げているんですね。今お芝居がリアルな表現にどんどんなっているから、それを壊したいと。僕自身はリアリズムなものも、そうでないものも両方あって良いと思ってやってきたんだけれど、そう言われてみると演劇が単純なリアリズムになっているのも確かで。一方、ブレヒトの時代、20世紀の頭というのは、自然主義の台頭を打ち壊そうとして、日本の浮世絵や歌舞伎、能等からもヒントを得てリアリズムでない表現を探した時代なんです。僕はそれに刺激を受けて芝居を始めたので、この作品なら白井さんの想いにも叶うんじゃないかなと。
ブレヒトは政治的な難しい人という印象があるけど、それはナチスの台頭から、戦後東ドイツができてコミュニズムの中で生きなければならなかったという、葛藤のあった晩年の印象が強いからで、若い頃は見世物小屋の入口で呼び込みの音楽をやっていたり、キャバレーに飛び入り出演したりしていた人なんです。この作品も個別性のある人間たちが戦争の為に兵隊にとられることで「個」を失っていく話で。これまでは「男は男だ」と訳されて来たのだけれども「Mann」には男だけでなく人という意味も入っているから「人間は人間だ」ということなんです。戦争に駆り出されるような状況でこの作品をブレヒトが若い頃に通ったようなキャバレーを再現して作ろうと。「キャバレー」って日本だとクラブとくっ付いた「キャバクラ」が連想されるんだけど(笑)、本来の「キャバレー」は20世紀末に権威的な芸術ではない、庶民的なものを披露する場所としての可能性を感じてアーティストが詰めかけた場所なんです。そういう意味のキャバレースタイルで、この芝居をやろう!と思っています」
客席も巻き込んだ重層的な演劇空間
――― 飲食しながら芝居が観られるというスタイルになるとも伺っていますが、作品をどんなアイディアで膨らませようと?
「まず劇場に入ってくる途中で楽屋裏が見え隠れするようになっていて、役者たちが台詞の確認をしたり寛いだりしている様子が見えます。更に客席に進むと、飲食できる前の方の席に料理を運んだり、お酒をついだりする給仕たちがいる。開演時間になると、彼らが『Mann ist Mann』で兵隊たちを演じる役者として芝居を始めて、時には着替えに戻ったりする。更に『Mann ist Mann』という芝居の中でも、兵隊の人数が足りなくなって、点呼に間に合わせようと居合わせた男を兵隊に仕立てあげる「お芝居」をするので、まず役者が給仕やコックに扮し、給仕やコックが劇中の登場人物になり、その登場人物が1人の男を騙す為に芝居を打つという感じになります」
――― 幾重にも重なった構造になっているんですね。
「そうですね。もちろんブレヒトの書いた作品完全にがそうしたスタイルを取っている訳ではないので、自分たち流に如何に膨らませていくか、今も色々と練っている最中で、物語の途中で別の歌が入ったり、コックたちが騒いだりという場面も入ってきたりする趣向になります」
――― 客席も全部巻き込んで、ひとつの劇空間にと。
「そうしたキャバレー文化はヨーロッパにはまだあるんだけれども、日本にはあまりないものだからそれ自体も創り出さなければならない。物語の装置をただ飾りこむのではなくて、小屋自体を創り出さなければならないので今美術の乘峯雅寛さんに構想を伝えていて、きっと面白いものができると思っています」
毎日異なる「事件」が起こる、演劇世界ならではの醍醐味を体感して欲しい
――― 出演者の方達も全てオーディションで選ばれたということですが。
「白井さんもつきあって下さって選びましたが、今の時代は皆が同じであることを求められていて、ユニークな個性が社会や教室の中で除かれてしまう。昔は肉屋と魚屋だったら見ただけで違いがわかったものだけれど、今はお医者さんですら白衣を脱いだら医者だとはわからない。そういうだから、どうしても役者自体も似通ってきてしまうんですね。でもこの作品はパーソナリティが壊されていって画一化されていくこと、アイデンティティをめぐる物語だから、まず最初に個性的な色々な人物が登場しないと成りたたないので、今は彼らの個性を引き出す作業をしていっています。曲もオリジナルで創ってもらって、安蘭けいさんには作品の中では兵隊が移動する列車の中や、駐屯地で店を開く酒場の女将役ですが、このキャバレー全体の女主人として、原作にはない歌も歌ってもらおうと思っています」
――― これまでも串田さんは演劇の既成概念と言ったものを取り払う作品を創り続けていらっしゃいましたが。
「僕が演劇を始めたのは、多くの人がそう思っていた時代で「自由劇場」でも例えばシェイクスピアにしても、日本人にしかできないシェイクスピアをやらなければダメじゃないか?と常に議論を重ねていました。演劇の多様性を求め続けるのはすでにもう性のようになってしまっているので、今回のものもあくまでもその1つです。
今演劇が商品化されていて「売る人」と「買う人」になっているけれども、舞台と客席が同じ作品を創るある意味の共犯者だった時代の、共に空間を楽しむことをやっていきたい。観ながら食べるというのは考えたら携帯が鳴っちゃう以上の行為なんだけど(笑)、緊迫したシーンになれば、規制しなくても自然に集中するだろうし、また楽しいシーンではリラックスして楽しめる。白井さんともKAATやまつもと市民芸術館のような企業に縛られない公立劇場だからこそできることがあるはずだと話していて、こんな自由なことができる公立劇場って良いなという流れが全国に広がっていって欲しいです。そのひとつとして、演劇は決して画一されたものではない、こんなに刺激的で楽しいものなんだと提案している作品です。作品と言っても絵画や文学のように完成されたただ一つのものではなくて、毎日変わっていく、毎日「事件」が起こっていくのが演劇ですから、その醍醐味を体験して頂きたいと思っていますので、是非楽しみにしていて下さい」
(取材・文&撮影:橘 涼香)